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 水路の歴史

清瀬市は、武蔵野の雑木林、柳瀬川流域の水田と、台地上の畑などに象徴される純農村地域として、長い開拓の歴史を歩んできました。

長さ約25キロメートルの用水路である野火止用水は、江戸幕府の重臣で川越城主でもあった松平伊豆守によってつくられました。これは、野火止(現在の新座市の一部)地域の人々の飲み水確保と、近隣の開墾地拡大を目的に、玉川上水(小平市小川)から分水を受けて引いたもので、東村山市から清瀬市、新座市を通って志木市で新河岸川に注いでいます。

昭和20年代までは、地域の人々にとって欠くことのできない生活用水でしたが、その後の宅地化の波で生活排水が流れ込み、玉川上水からの通水も断たれたため、次第に汚れていきました。しかし、このまま野火止用水を滅ぼしてはいけないと、地域住民の声が高まり、東京都は、野火止用水を歴史環境保全地域に指定し、整流復活事業として、野火止用水を甦らせ、史跡として、また、地域の人々の憩いの場となるように整備しました。

 清瀬市の成り立ち

清瀬市の市町村合併は、明治22年(1889年)に、現在の市域にあった上清戸・中清戸・下清戸・下宿・中里・野塩の6ヶ村が合併し、神奈川県北多摩郡清瀬市村となったのが最初です。その4年後の明治26年(1893年)には、北多摩・南多摩・西多摩郡が神奈川県から編入され、東京府北多摩郡清瀬市村となりました。大正に入ると、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の開通や、清瀬市駅の開業によって都心へのアクセスが次第に整えられていきました。こうした清瀬市の交通の便の良さや自然環境から、結核療養施設などが次々に建設されるようになり、療養センターのあるまちとして、その名は全国に知られるようになりました。

 昭和時代から現在

終戦を境に、療養施設の一部が海外からの引揚者の住宅として利用され、多くの人々が転入してきたことが、清瀬市における人口増加の端緒となり、1万人を超えた昭和29年(1954年)に、町制を施行しました。その後もベッドタウン化が進み、人口が急激に増加し、昭和45年(1970年)、市制を施行して、人口約5万人の清瀬市となりました。

昭和60年(1985年)頃より、清瀬市駅北口再開発の取り組みが始まり、公団住宅の建設や道路の整備が進められました。平成7年(1995年)には、市の玄関口である清瀬市駅北口周辺市街地開発事業が完成し、潤いと安らぎのある都市空間の創造に努め、優しいまちづくりを目指しています。

(清瀬市資料提供)